吾輩は神である。
スピリチュアリズムの視点から見る神とは?
神様というと皆さんはどのような姿をイメージできるでしょうか?
白髭を生やしている人や仏様のようなイメージを持つ人も多いのではないでしょうか?
しかし、スピリチュアルからの視点で見た神とは人間の形をしたものではありません。
神とは、摂理そのもの、真理そのもの、叡智そのもの、愛そのものと定義されています。
そして、それは全ての生き物や物にも含まれており、存在する全てのものに神が宿っています。
ですから、当然ながら私も神であり、このブログを読んでいただいている皆様も私と同じ神なのです。
神もまた未熟である
また、神様とは完全無欠のなんでもできる無敵の人というイメージがありますね。
しかし、同じ神である私達は毎日毎日失敗を繰り返したり、下手をすれば悪意を持って相手を傷つけてしまう場合もあるかもしれません。
それなのになんで私達は神なのでしょう?
とても不思議です。
しかし、スピリチュアリズムの視点から見る神は完璧ではなく、極めて超越した部分の粒子からそうではない未熟な部分の粒子も実は持っているのです。
そして、その未熟な部分が私たち一つ一つの魂でもあり、私たちが日々様々な経験と感動を通して成長していることもそのまま大きな粒の塊である神の成長に繋がるのです。
神を見る
最初に、神の定義として、神は、摂理であり、真理であり、叡智であり、真理そのものだということをお伝えさせていただきました。
この定義だとなかなかイメージしにくい部分がありますが、私達自身が神様であるようにすぐ目の前で神を見ることもできます。
それは、季節によって変わる葉っぱ一枚一枚の変化、そして、時が経ち木からヒラヒラと落ちる葉っぱ一枚一枚とその動き、風でなびく海の波や自然の動き。
これら一つ一つに神の摂理が働いています。
この摂理も神です。
また、親が子を思うように見返りを求めず、ただただ相手の幸せのための行為も、まさに神そのものの愛なのです。
そして、これらの一つ一つの表現が神そのものだといえるのです。
ですから神は私たち自身でもありますし、見渡すところの至る所に神は存在をしています。
なので、嬉しいことも悲しいことも、良い行いも悪い行いも、実は、すべて神に見られており、それがそのまま法則として、後々の結果として現れるのわけです。
神とは大事にするもの
ここまでスピリチュアルの視点から見た神について解説させていただきました。
最後に、私達は神であるが故に私達は神らしい存在として周りの人々、動物、植物、鉱物、全ての物を神として大事に扱い、神として敬い、神らしい行動をとらなければいけません。
そのためには、自分さえよければいいという未熟な神の部分は捨てて改めていかなければいけません。
そして、そのような未熟な利己的な部分を捨てれば捨てるほど完璧に近づき幸せに生きることができるようになるでしょう。