たまに自分では悪気がないのに自己中などと言われてしまったりして自分の存在を否定してしまう人がいます。
しかし、実はそういう人は自己中ではありません。
自己中ってどんな人?
さて、自己中ってどんな人でしょう。
私は、自己中とは自分のことの利益だけを考えて人を蹴落としてでも得しようとする人だと思っています。
そして、そのような人は自分が正しいと勘違いしてしまっていたりするので、好き勝手暴走している自覚すらない事もよくあります。
なので、もし自分では自己中な行動をしているつもりがなく勘違いされてしまうという場合は、表現が苦手というだけで少なくとも私はそのような人を自己中と思うことはありません。
相手は自分の鏡
勘違いしてしまう人もまた自己中
よく人は「あの人って自己中だから嫌い」など言ったりしますよね。
しかし、実はこれは自分自身の自己中な姿の写し鏡であることがよくあります。
よく人は、自己中だと言われている人のことをみんなで嫌って陰口ばっかり言っていたりしますよね。
でもそのような人達は、実は相手の内面を見ずに、自分たちが正しくあいつが悪いという自己中な考え方が相手の姿を通して炙り出されてるという事もよくあるのです。
もし、そのように自分本位な考え方になってしまっている場合は改めていかなければいけません
本当に身勝手の場合
また、本当に自分のことしか考えていない自己中な人もいます。
しかし、そのような人に出会うというのもスピリチュアルな視点で見ても意味があります。
それは2つあって、1つは先ほど述べたように自分の未熟な部分を表す鏡である場合と、もう一つが、自分の未熟な部分を鍛えるために出会わせてもらえたという意味もあります。
例えば、悪気もなく自分好き勝手に行動してしまう人は当然ながら自分が正しいと思っているので反省する気すらないわけです。
そんな相手はそもそも協調する気がないわけですから、そのような人と協調するというのはとても大変です。
しかし、逆に言うと、そのような人を思うがままにさせてしまっていたり、いちいち感情的に反応してしまう自分自身の未熟な部分が逆写し鏡として出てきたりもします。
また、それは悪いことではなくて、現世というのは悪魔で人格を育てる学びの場になります。
ですから、そのような人に出会っても感情的になって「あいつは嫌いだ!」となるのではなく、なぜそのような人と出会ったのか、なぜ今の環境で出会ったのかなどを考えて、私の未熟な部分ってなにかなぁと考えて、悩みができたときは苦しいと思いますが、苦しいということは自分に未熟な部分がある証拠であり、その苦しみを乗り越えるということは新たに知恵を学べたということになります。
新しく知恵を学べたということは、真理を理解したとも言え、真理を理解したということは、次に同じような問題が起こっても悩むことなく対処できるようになったり、また、相手の気持ちも手に取るように分かるようになります。
そうなるとむやみやたらに感情で相手を嫌うこともなくなり、淡々と相手のことを考えて行動できるようになります。
それは、自分の人格が成長した、魂の成長したということでもあり、さらなる幸福を得られるようになったといえるわけです。
ですから、スピリチュアルな視点で見ると、苦しみとは幸せのための栄養として実はとても大切なものといえます。
現実的な対処法
さて、ここまではスピリチュアルな視点で解説させていただきましたが、ここからは勘違いされてしまう場合の現実的な対処法をお伝えしますね。
事前に伝えておこう!
もし、どうしても勘違いされてしまう場合は事前に勘違いされやすいことを伝えてみましょう。
事前に伝えておくことで、相手にも悪意がないことが伝わるので理解してもらえやすくなります。
また、勘違いされてしまった時には、その都度、悪気がなかったことを謝って伝えてみるようにしてみましょう。
そうすれば相手も理解しやすく、仲良くコミュニケーションをとりやすくなれるようになりやすくなります。
ぜひ、やってみてはいかがでしょうか。