善ってなに?悪ってなに?
子供から「ねぇねぇ、善ってなに?悪ってなに?」と、質問をされたらどのように返しますか?
多くの人は、「世の中に善悪はないんだよ」とか、「人のためにすることが善なんだよ」と伝える人も多いのではないでしょうか。
しかし、そこからさらに突っ込まれて、「じゃあなんで戦争はダメなの?」や、「その人助けが偽善だったらどうするの?」と言われたら困ってしまった経験があったりしますでしょうか?
善悪の判断となるとフワフワしている部分も多くなかなか判断できない部分でもありますが、今回はスピリチュアリズムの視点から明確に定義を身につけていきましょう。
善悪の定義
まず、善悪には明確な定義があります。
善とは許す心・理解する心・思い遣りなどの利他的な人の幸せを考えて行う行動・言葉・思いになります。
また、夢や目標のための努力や向上心も様々な経験が人の気持ちの理解に繋がるのでこれも間違った行いではありません。
ただし、人を騙したり陥れたりしてでも夢や目標を掴み取りたいという思いは自分のことだけを考えた行動は悪といえます。
逆に、悪は、人の気持ちを理解しようとしない無理解や身勝手な心、人を許さない恨みなど自分さえよければいいという身勝手な行動・言葉・思いになります。
悪に生きてなにが悪い?
「あれ?ちょっと待って。そもそもなんで悪に生きたらいけないの?自分の好きなように生きたほうが幸せじゃん。なんで周りにいちいち気を配らないといけないの?」
なんて思う方もいるかもしれません。
ある意味その通りで、別に悪だといわれる行動をすることも実は悪いことではないのです。
しかし、悪に生きた場合、その先に必ず苦しみが待っています。
例えば、楽して詐欺で稼いだとしても、そのうち逮捕されて刑務所で何年も不自由な生活を送らなければなりませんし、ネットに実名や顔が出てしまうと、今後数十年はまともな生活も送れなくなってしまうわけです。
また、詐欺などの犯罪行為でなくとも、いつも自分のことだけ考えて身勝手な行動をするならば周りの人と必ずケンカになります。
そんなケンカが続いてしまうと気持ちも良くないですし、そのうち「どうして誰も自分を理解してくれないんだ」と、劣等感という苦しみ味わってしまう結果になっていきます。
実は、悪とは苦しみの人生になってしまいます。
善に生きる幸せ
しかし、善の心で生きると逆のことが起こります。
それが幸福です。
例えば、詐欺などの犯罪を犯さなければ、刑務所に入る必要もありませんし、周りと仲良く調和が取れれば気分が悪くなるどころか幸せを得ることができるようになります。
困った時はお互い様。
不平等な差別や格差もありません。
まさに幸福のユートピアといえるのではないでしょうか。
善と悪は叡智と無智
また、善と悪の定義を叡智と無智に置き換えることもできます。
例えば、給料日までの残り3日間の間に1万円で生活しなければいけないとします。
きっと多くの人は、その1万円から食費や必要経費を引いて余ったお金をちょっとした贅沢に使うという知恵があると思います。
しかし、その3日間を計画的に考えて生活する知恵がなければ、1日目にして遊園地に行きたいという感情を抑えられず、1日目にして1万円を遊園地で使い果たしてしまったとします。
そうすると残り2日間はお金がないため飲まず食わずで味わう必要のない苦しみを味わうことになってしまいます。
それと同じで、嫌がらせや身勝手な犯罪行為といったいわゆる悪い行いというのは、悪いことをしたら悪いことが返ってくるというカルマの法則を理解していない無智からきている行動なだけなのです。
だからといって悪い行いは無智なだけで自分にカルマが返ってくるからほっておきなさいということではありません。
悪そのものは許してはいけないのです。
罪を憎んで人を憎まず
昔から罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますね。
この諺の意味は、罪は許してはいけないが罪を犯した人はそれぞれ事情があったのだから許してあげましょうという意味ですが、これはとてもスピリチュアリズムに乗っ取った言葉だなと思います。
これはなぜかというと、悪は無智に言い換えることができますから、悪い人は言い換えると無智の人と表現することができますね。
これは無智であるが故に罪を犯したというふうに理解できれば、悪人という無智の人には正しく知識と知恵を与えることができれば知恵の人、つまり善人に変わることが必ずできるようになるのです。
なぜ悪は許してはならないのか?
「ちょっと待って。さっき善の定義で許すことは善と言っていたじゃないか」と、思う方もいるかと思います。
しかし、悪い行動そのものは相手のために許してはならないのです。
例えば、万引きという行為そのものを無罪にして許してしまうと、きっと多くの人が万引きを始めてしまいます。
しかし、そうなってしまうと、当然治安も悪くなってまともな生活もできなくなってしまいます。
もしかしたらさらに調子に乗ってドンドン悪い行いを増やしてしまうかもしれません。
そうなると、結局、悪いカルマは時間差で自分に必ず返ってきて、自分で自分の首を絞めることになり、その悪を放置していた人々にも同じように生活苦という形で返ってきてしまいます。
なので、悪人というのは知恵を与えて善人に成長できますが、悪そのものを許すということは、そこには悪が蔓延りみんなが不幸になってしまい、また、その不幸も自分自身の無智という悪によって引き起こされているということになるわけです。
ですから、幸せに生きるためには悪の行動・言葉・思いを減らし、善の行動・言葉・思いを増やすことがとっっっっても大事なのです。