スピリチュアルのすすめ

スピリチュアリズムについて記事を書いてます。

幽霊と憑依!憑依の仕組みがわかれば怖くない!

毎日、嫌なことしか起きない…、もしかして、私は何か悪い霊に憑依されているのでは?

今回はそんな方向けに記事を書いてみました。

憑依とは?

憑依とは、霊が憑依した時の状態をいいます。

霊にもそこら辺にいる未浄化霊や自然霊が憑依したり、稀に霊媒として高級霊が憑依します。

ただし、教祖のように私には〇〇が憑いているというように偉人の名前を語るのはほぼすべて低級自然霊の憑依になります。

当然、幸せになることはできません。

憑依は怖くない

憑依というとどうしても悪霊など悪いものをイメージしてしまいます。

しかし、大抵の場合はそのようなことはなく、実は日常の中で普通に憑依されていたりします。

それでは、憑依されると人はどのようになってしまうか見ていきましょう。

泥酔は憑依の仕業

憑依する霊とは、まだ現世に未練があってお酒を飲みたい人は酒場にいたり、肉が食べたいという霊は焼肉屋にいることも普通にあります。

例えば、お酒を飲みすぎてしまって飲んでいた時の記憶がまったくないということがありますよね。

実は、そういった時は、お酒で理性が薄くかなってくることで、無意識状態のようになり、Aさんがお酒を飲んでいるようでも、実際は憑依している霊がお酒を飲んでいるということがあったりします。

また、普段よりやたら食べすぎてしまったということってありますよね。

実は、そういった場合でも、憑依がされていることがよくあります。

例えば、肉が好きで普通に食べているうちに、肉を食べたい未浄化霊が憑依して食べすぎてしまったり、また、周りの人の食べたいという思いが憑依して普段より食べすぎてしまうということも実は普通によくおきています。

このように、憑依というのは恐れるものではなく、何気ない日常で普通に憑依されていることもよくあったりします。

憑依は同じ波長で結ばれる

ここまで読んでいただければ憑依というのは恐ろしいものではなく、日常的によくあるものなんだということがわかったなと思います。

実は、この憑依現象というのは全てが波長で繋がっています。

例えば、仲のいい友人がいたりすると思いますが、実は、これも波長によって自分の波長が引き寄せた鏡になります。

とても面白い現象ですが、仲のいい人であればあるほど、目に見える肉体を持った同士の憑依なのです。

幽霊の憑依も怖くも何でもなくて、肉体の持たない幽霊が「あなたは私と同じ想いだね!一緒にいたい!居心地がいいの!」といってくっついているだけなのです。

なので、イジワルしようとしている人にはイジワルしたい未浄化霊が憑依するようになり、逆に、霊性の高い人には高級霊が見守ってくれるようになるのです。

憑依されるとどうなるのか

憑依されると、その性格が大きくでます。

酒飲みであれば歩けなくなるまで飲みすぎてしまったり、食事であれば食べ過ぎてしまうように、意地悪しようとする霊が憑依された場合、理性で抑えることができなくなってしまい、やらなくていい嫌がらせや過激な嫌がらせをしてしまうようになりトラブルを引き起こします。

しかし、それは憑依霊が悪いのではなくて、その意地悪したいという気持ちを持っている自分が引き寄せているだけの話しであって、厳しいですが、憑依される自分が悪いのです。

憑依を解くには

憑依を解くには憑依霊と波長を合わせないことが重要です。

先ほど、意地悪したい人に意地悪したい霊が憑依してしまうと説明しました。

これは、なぜ憑依するのかというと、同じ想いを持つ人なら自分の気持ちを理解してくれるので、憑依した状態がとても居心地がよくなってしまい離れたくなくなるからです。

これは、逆に言えば同じ想いを持たなければ、未浄化霊も居心地も悪く憑依されるということがなくなるということです。

そのためには、常日頃から人を陥れたり、嫌がらせしようとする心や、差別的な心を持たずに、人の気持ちを考えて思いやりを持って接することが大切です。

そうすれば、そのような人は悪い霊とは波長が合わないので憑依されることはありません。

それどころか、高級霊からのご加護をいただけるようになります。

何でもかんでも除霊しますという霊能者は偽物

除霊して幸せにしますという霊能者は偽物です。

ここまでも説明してきましたが大抵の場合、憑依は自分の心と同調して憑依されます。

そのため、仮に霊能者と呼ばれる人に除霊してもらったとしても、本人が変わってないわけですからまた同じような未浄化霊に憑依されてしまいます。

なので、除霊して幸せになれるなんていうのはまず偽物なのです。

まとめ

幽霊の憑依というのは私たちの心が原因です。

そして、「人の役に立ちたい!」「思いやりを持って行動したい!」という人には高級霊が見守ってくれます。

なので、除霊したところで心が変わらなければ、また同じ思いを持った霊に憑依されます。

ですから、普段の心がけを大切にすることと、除霊しか言えないような霊能者なんて信用はゼロです。

 

無償の愛とスピリチュアル

無償の愛って何?

無償の愛とは見返りを求めない愛のことをいいます。

親から子供へ学歴など関係なくただただ素直に成長してほしいという愛情は、この無償の愛にとても近いです。

とはいえ、重箱の隅を叩くような言い回しになってしまいますが、無償の愛と親子の愛はすこーしだけ違いがあります。

それは、親子の愛は親から子への愛情になりますが、無償の愛は我が子を愛するように現世を生きる全ての生き物を自分自身と思い、目の前にいる人や、困っている人、現世を生きる全ての生き物の幸せを願う心です。

なんで見返りを求めたらいけないの?

見返りを求める愛というのは、苦しみのもとになってしまいがちなので、あまり見返りを求める愛はおすすめしません。

例えば、友達に洋服を買ってあげて、宿題も見せてあげて、なんでもしてあげたとしてます。

そして、相手からは何をしてもらえるかなぁ〜と待っていたところ、待てど暮らせど何もしてもらえません。

そうなるときっと、「あれもこれもやってあげたのになんで何も返してくれないの!」と怒ってしまいます。

しかし、冷静に考えると、その友達と何かお返しをする約束をした訳でもなく、実は、自分だけの独善的な妄想でしかなかったのです。

このように、実は見返りを求める愛というのは、一見、得したように見えて、実は苦しみの元になってしまうのです。

また、凄く厳しい言葉になってしまいますが、この見返りを求める思考はストーカーの思考と似ていたりもします。

ストーカーの思考

ストーカーの思考というと、「自分を嫌っているわけがない」とか、「あいつが自分たちの恋を邪魔している」などものすごく独善的な感情を抱いています。

その結果、逮捕されてしまったりというような大きなトラブルを引き起こしてしまいます。

 

それと同じで、約束も何もしていないのに見返りを求める独善的な行為も友人関係のトラブルに発展してしまいます。

やはりそうならないために、例えば運動会で自分の学年の競技を決める時に「あれやりたい!」「これやりたい」というふうに意見を出し合うように、自分が思っていることや、やりたいことなどを会話で伝えあってお互いが納得する選択をすることが大切です。

 

とはいえ残念ですが、自分は本気で話し合いをしていても、相手が騙そうとして都合のいい言葉ばかりを並べてくることもあります。

相手との話し合いと共に、相手が本当に話し合って寄り添う気持ちがあるのかどうかという見定めも気をつけて見ていきましょう。

しかし、欲しいものは欲しいと言った方がいい

これは、結婚生活でも日常的にあることだとは思いますが、「なぜこの人は物を片さないんだろう?」とか、「なぜこの人は時間を守らないんだろう?」と、いうふうに時間が経つごとに不満を持ってしまうことがあります。

しかし、それをずっと我慢して溜め込んでしまうと、どこかで限界がきてしまいます。

そうならないように、お互いに「これをして欲しいけどどう思う?」とか、「門限は○時まで。それ以降、遅くなるなら連絡しましょう」というふうに、して欲しいことや、されたいことなどを話し合いながら生活を送っていくということもとても大切です。

見返りを求めない愛の与え方

「見返りを求めない愛ってどうやるの?」と思う方もいるかと思います。

そこで、今回は私なりに見返りを求めない愛のやり方について説明していこうと思います。 

まず、私たちは、普段の生活の中でたくさんの人助けをしています。

落とし物を拾ってあげたり、道を案内してあげたり、お仕事での譲り合いなど沢山のことをしています。

その行為はとても素晴らしいことですが、しかし、その先に「これだけのことをしたんかだから何かいいことあるだろう」と、霊界に見返りを求めてしまうことがよくあります。

ですが、私はこの考え方は間違っていると思います。

スピリチュアルには、いいことをすればいいことが返ってくる、悪いことをすれば悪いことが返ってくるというカルマの法則があります。

この視点で見ると、落とし物を拾ってあげたいと思った時に求めていることって相手が財布が見つかって幸せになることですよね。

ですから私は、落とし物を拾って相手が幸せになってくれた時点で十分カルマは返ってきたと思っています。

しかも、人というのはいい行為も悪い行為も伝染していきます。

ですから、わたしが助けることができた相手は、きっと他の誰かのために行動してくれていると思います。

そして、その一つ一つの行いが未来の世の中を変えていくことにつながってもいきます。

たまに、なんでこんな世の中になってしまったのだろうと呟く人がいますがそれは簡単です。

私達の行動によって今の世の中を作ったのです。

そして、未来の世の中をどう作り替えていくかも私たち一人一人の行動にかかっているという責任を持たなければいけません

人のために行う行動は日頃の感謝

また、私たちは、特に考えることもなく日頃から人と会話をし、コンビニで買い物ができて、相談を聞いてもらえたり、時には落とし物を拾ってくれたりもします。

なので人助けをする時は、その常日頃から与えてもらっている行いへの感謝も込めて私は行っています。

ですから、やってあげたからやってもらうという発想はなく、むしろ人助けは日頃の行いに対する感謝だと思えば、実は見返りというのはそもそも求める必要もなく、それよりも相手のために行動させて貰えたことに感謝できるようになるのだと私は思っています。

時に立ち止まることも大切

しかし、もし今後生きていく中で、「あの時あれだけやったのになんでこんな苦しむんだろう」という思いがよぎった時は、一度立ち止まって、自分自身が見返りを求めていないか、感謝の心が忘れていないかを思い返してみてみましょう。

 

その日々の心がけも良いカルマとして必ず自分に返ってきます。

そしてそれは、憑依も弾き返すバリアにもなります。

最後は必ず黒字で終わる

現世は、あくまで学びの場です。

時に、損をしたと感じる事があるかもしれませんがそんなことはありません。

永遠という長い時間を考えると良い行いには良いカルマとして必ず黒字となって返ってきます。

全ての出会い、出来事は自分のこれまで蒔いたカルマの結果だということを意識して、自由に現世を楽しんでみてはいかがでしょう。

 

 

 

 

 

障害者とスピリチュアル

世の中、生まれながらにして障害を持っている人がいます。

どうしてもそのような人の中には、無知な発言から傷ついてしまい劣等感を抱いてしまう人もいますね。

今回は、そんな方のためにスピリチュアルな視点から見た身体障害や知的障害などについて書いていきます。

障害は悪いもの?

スピリチュアルの視点から見てみると障害はまったく悪いものではありません。

しかし、障害を持った理由はいくつかのパターンがあります。

スピリチュアルからみた障がい者の特徴

①今回の生まれ変わりでより大きく成長したい魂

こちらは、今回の生まれ変わりで今まで以上に大きく成長していきたいという魂になります。

そのため、人一倍重い学びを選択して生まれてきた魂になります

②前世のカルマが返ってきている魂

こちらは、前世のカルマにが現世に返ってきた場合になります。

例えば,前世で腕がない人をバカにしたりいじめたりした結果、霊界で反省して現世ではやられる側の痛みを知ってみたいと考えて生まれてきたりします。

しかし、このようなことを言ってしまうと自分が悪人のように感じてしまうかもしれませんがそのようなことはありません。

人はみんな未熟である

例えば、私も大金を騙し取られたこともあります。

この詐欺の被害にあった時に当然ショックは大きかったですが、霊性に考えると楽して成功しようと考える未熟な考え方がありました。

この被害は冷静に考えてみると、良いことをすれば良いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるというカルマの法則を理解していないからこその被害だったんだと私は思っています。

スピリチュアルを知っていてもこの程度なわけです笑

それからというもの、上手い話には極力警戒して、普通のスマホを買うにも店員は悪いことは言ってくれないので自分で調べてから買うようにしていたりします。

それと同じように、障害というものを毛嫌いするものでもなく、障害があるからこそ人の冷たさを理解でき、さらに、手伝ってくれる暖かさも体験できるのです。

大体の人は障害を持たずに生まれてきます。

しかし、生まれながらの障害は悪い物ではなく、むしろほとんどの人が経験できない学びを沢山できるありがたいレアパターンともいえます。

前世に引っ張られない

もしかしたら、人によっては耳が痛い話しだったかもしれません。

しかし、はっきり言って前世なんて終わった話しなどどうでもいいのです。

今,現世を私たちは生きています。

この現世で「腕があったらなぁ」「足があったらなぁ」「知的障がいがなければなぁ」など思うことも沢山あると思います。

しかし、何十回、何百回と生まれ変わりはあります。

そんな中で、障害を持って生まれてくることの方がきっと少ないです。

なので、苦しいことは沢山あると思いますが、障がいを今しかできない嬉しい体験と考えて、現世でしか味わえない様々な体験を楽しんでみてはいかがでしょうか?

今の行いが未来につながる

凄く耳の痛い話しですが、良い行いも悪い行いもすべて返ってきます。

今、障害者をバカにしている人はきっと反省する機会がきます。

逆に、今、障害などで苦しくとも日々、頑張っている努力も霊界は全てを見ています。

そのような努力もきっといい形で必ず返ってきます。

もちろん、来世で障がいを持つということもないでしょう。

ぜひ、来世を楽しみにして今を生きてみてください。

現世の寿命もあっという間です。

今、起きている全ての現象は私たちの行いの結果です。

そして、これからどのような人生にしていくのか、どのような世の中にしていくのかの選択も私たちの行動にかかっているのです。

みんな成長するために生まれてきている

障害のある人も、詐欺にあった人も、裏切られた人も、孤独な人も借金漬けの人も、結婚相手も全てが自分で選んだ結果なのです。

誰がよくて誰が悪いということではないのです。

 

スピリチュアルと科学

スピリチュアルというとどうしても非科学的で怪しいものというイメージを持つ方もいるかと思います。

そこで、今回はスピリチュアリズムと科学について簡単に記事にしていこうと思います。

スピリチュアルとスピリチュアリズムの違い

スピリチュアルとは

スピリチュアルは主に目に見えないものだったり、占いなど科学で解明できないことをいいます。

もちろん、その中には怪しい人が沢山います。

スピリチュアリズムとは

こちらは目に見えない霊現象などの研究と霊媒の霊言によって導き出された霊訓を日常生活に活かし、より人生を豊かにするためのものになります。

スピリチュアリズムの始まり

1848年、アメリカのハイズビューという村にあった一軒家で霊と会話するというポルダーガイスト現象がありました。

そして、その霊と音で会話をした結果、チャールズロスナーという霊で、霊との会話によってその人物が殺されて地下に埋められていることが発見しました。

当然、勘で殺人時間が解決する訳もなく、この事件が話題となり、多くの有名な科学者によって、その原因を究明しようというところがスピリチュアリズムの始まりになります。

研究によって

様々な科学者によって研究された霊現象でした。

しかし、結局、解明はできずにトリックがあるということは証明されずに事件は終わりました。

様々な霊現象

その後も、霊現象の科学は続きエクトプラズムや、様々な霊視など科学的な研究は国家レベルでも行われていきます。

また、アメリカのリンカーン大統領も霊媒が霊を下ろし霊言を話す交霊会によく出席していたそうです。

シルバーバーチ

1920年高級霊といわれているシルバーバーチという霊がモーリスバーパネルに憑依し、霊言を話し出したことが当時とても有名となりました。

さまざまな不思議な現象

シルバーバーチが話し始めた頃は、霊言と物などが勝手に動く物理現象なども起きていたそうです。

しかし、そのような物理現象は霊を証明するための手段なので、年が経つごとにそのような物理現象は最終的にはなくなったそうです。

また、憑依している状態でも科学実験がされていて、シルバーバーチが憑依されている間は明らかに心拍数が変わっていたり、憑依している時に針で思いっきり刺しても憑依が解けた頃には傷は跡形もなくなっていたという記録があるそうです。

高級霊と低級自然霊

高級霊とは

そもそも、高級霊ってなんだろう?という方もいると思うので、高級霊についても解説させていただきますね。

高級霊とは、霊界にいるようなかなり浄化が進んでいる霊や、完全に浄化が進み既に現世に生まれ変わる必要がなくなった霊をいいます。

このような霊は、誰か人に指図するということもなく、現世の力になりたいという思いから自ら現世に降りてきて多くの真理を伝えてくれます。

高級霊は私が高級霊だと声高々に言うことはありません。

むしろ、私もあなたも変わらない存在なんだと伝えてくれます。

低級自然霊とは

低級自然霊とは現世に生まれてきたことない霊になります。

この低級自然霊は、まだまだ未熟なため争いや破壊などを好み、自分さえよければいいという思いを持っています。

しかし、この低級自然霊という存在も私たちと同じように成長しており、私たちが一生懸命目標や人の為に頑張っている姿も見ています。

そのような姿を見て低級自然霊も少しずつ成長し、最終的には高級自然霊へと進化していきます。

魂を否定する非科学な結論

これまでに、多くの魂に対する科学実験がされてきました。

それなのに、その研究結果を全く見ずに無いものは無いと全否定する人がいます。

それは、テーブルの上に置いてあるリンゴを「ないない!」と、言っているようなもので、まったく科学的ではないのです。

信じなくてもいい

とはいえ、まだまだ完全に解明されたわけではありません。

しかし、意外と霊訓くらいが丁度いいのかもしれません。

魂の存在が完全解明されると、あんまり霊界と変わらないように感じます。

それよりも、現世で別々の存在となり、皆んながワガママに生きて、未熟であるが故に傷つけ、傲慢な人が長寿となり、いい人が短命になるからこそ、幸せとはなんなのか?

なぜいい人ほど逆境に立たされるのか?

どのように生きることが大切なのかということを学ぶ機会をいただけているんだろうと感じています。

それは、つまるところ困っていたら助けたい、人の役に立ちたい、人のために生きたいという幸せに行き着くのかもしれません。

 

あなたが泣いているから私も悲しい。

あなたが苦しんでいるから私も苦しい。

あなたが元気になってくれたから私も元気になれる。

あなたが喜んでくれるから私も嬉しい。

意外とそれくらい簡単なものなんでしょうね。

 

 

 

 

自己責任論は正しい?スピリチュアルと自己責任

最近、自己責任論というように全ては人生の全ては自分に責任があるという人がいたりします。

今回は、そこについて解説していこうと思います。

全ては自己責任

結論から伝えてしまうと、スピリチュアルな視点から見た時に、貧困や容姿や学歴や差別などなど、全てが自己責任といえます

しかし、スピリチュアルな視点で見ると巷で言われるような認識とは少し変わります。

巷で言われる自己責任論

巷では、「どんな恵まれない環境に生まれたって成功している人もいる。だから、成功しないあなたが悪いのだ」と言う人もいます。

しかし、現実問題として、親の年収が高いほど学歴は高くなる傾向にあり、学歴が高いほど年収が高くなる傾向があります。

さらに、まともに愛情持って育ててもらえなかったり、ひどいイジメなどで勉強まで手が回らなくなってしまったということもありますし、逆に、いじめっ子がそれなりの年収を得ていることもあるでしょう。

金持ち3代まで続き貧乏7代まで続くということわざがありますが、やはり、全てが自己責任というのはおかしな話しなんだろうと思います。

霊的視点の自己責任

スピリチュアルな視点で見た時にも自己責任はあります。

というよりかは、巷で言われている自己責任論よりもより過激といえます。

はっきり申し上げてしまうと、スピリチュアルの視点から見てみると、貧困や金持ちは勿論、貧困の家庭に生まれたことも、自分の容姿も、生まれ持った障害や、不慮の事故でさえも全てが自己責任といえます。

しかし、これは魂の視点から見てみると不幸ではないのです。

人はそれぞれの年齢に合った学びがある

この現世を生きていると、いじめっ子だった子が高い地位を得ていたり、自分のことしか考えていない人が金持ちになっていたりということはよくあります。

そういった人は、まだ、魂年齢が低いのでそれくらい優しい難易度でないと魂が耐えられないのです。

それは、恨んだり、自分が優秀なんだと悦に浸ることではなく、その人ごとに適した難易度というものがあるというだけの話しなのです。

また、魂年齢が高かろうが低かろうが、生きている以上は、それ相応の学びが必ずあります。

見た目では華やかで満たされていそうですが、実際の心の中ではボロボロであることもよくあるのです。

そして、厳しい言い方をしてしまいますが、魂年齢が大人だと自覚しているならば、そういった人を恨んだり見下したりするのではなく、大人が子供に伝えるように分かるように大人の視点で正しいとはなんなのかということを冷静に伝えて行動していくことが大事といえるでしょう。

全てを決めて生まれてくる

現世では、生まれた瞬間から金持ちの家庭に生まれる子もいれば、貧しい家庭に生まれる子もいます。

また、容姿が恵まれている子もいればそうでない子もいます。

生まれながらに障害のある子もいれば無い子もいます。

それらのことは、スピリチュアルな視点から見てみると全てが自己責任といえます。

もっと言ってしまうと、魂の成長のために自分でそのような姿や親や兄妹、ペット、時代など全てを選んで生まれてきたといえます。

私たちが魂の本質として学びたいことは、沢山の経験をして成長することです。

ということは、お金とか容姿がかっこいいとか可愛いなどそのもの自体はどうでもよくて、それどころか、貧しい家庭に生まれたら金持ちになる努力を通して沢山の経験を得られたり、容姿が悪いからこそ人の気持ちの本性を見せつけられて、人の本質を理解できるようになるといったとても大切な経験もできます。

さらに、生まれながらに障害があれば、その障害を通して、人の冷たさや暖かさなど多くの経験を得られます。

どうしても人は苦労の少ない人生を求めがちですが、魂の視点で見てみると、実はお金持ちになることやイケメンや可愛い恋人を作ることが幸せなのではなくて、多くの経験を通して人の冷酷さや暖かさに触れ、より多くのことを経験して人として成長することが幸せなのです。

もちろん、お金持ちならばお金持ちなりの視点、容姿が良ければ容姿がいいなりの視点から見て嫌なことやいいこともそれぞれ経験できるので、貧乏も金持ちも、可愛いも可愛くないも、障害のないことも障害のあることも全てが必要な経験なのです。

全ては自己責任論

真理の1つにカルマの法則があります。

これは、良いことをすればいいことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるという絶対的な法則になります。

これは現世だけで終わるものではなく、現世でカルマが返ってこない場合は、残念ながら来世に返ってきます。

残念ながら、現世からいなくなっても魂がある以上、死に逃げはできないのです。

悪いカルマが返ってくるのは自分の責任

必ず生まれ変わりというものがあります。

悪いカルマが返ってくるということは真理に生きていないことが原因になります。

例えば、現世で金持ちで生きて、貧乏な人を見下して生き抜いたとします。

しかし、霊界に帰ると全ての過去の行いがアカシックレコードというところに記録されており、こそこから、これまでの行動を全てを見ることができます。

そこで、自分がどれだけ多くの人を傷つけたのかということをまざまざと見せつけられます。

霊界では、全ての魂が1つと理解していることが常識なのです。

ですから、人を傷つけるとは自分を傷つけるのと同じ愚かな行為だということが簡単に認識できます。

そこで霊界で反省することになります。

そして、より人の気持ちを理解できるようになりたいという本人の希望によって今度は貧困で差別される環境を選んで、来世では逆の立場で生まれ変わってくるのです。

逆のパターン

ここまでこわーい感じで書いてしまいましたが、勿論、その逆もあります。

それは、現世でとことん容姿に苦しみ、それでも生き抜いて色々経験した場合、今度はその逆で、容姿が良い人の気持ちがどんなものなのか知れるように、来世ではイケメンや可愛い女性として生まれてくることもよくあります。

そして、来世では容姿が良かろうが必ず幸せではないということを理解していきます。このように、金持ちと貧乏、良い容姿と悪い容姿、障害のあるなしなど、両方を経験することで更なる成長ができるようになります。

また、良きカルマの種を蒔けば、たとえ現世で返ってこなくても黒字で全てが返ってもくるのです。

理由は2つ

先ほど、金持ちで貧乏人を見下していた人は来世で貧乏や見下される環境を選んで生まれてくるということをお伝えしました。

が、実は、それとは別でもう一つ別の理由であえて苦しい環境を選んで生まれてくる魂というのもあります。

それは、魂年齢の高い魂とより沢山成長したいという勉強熱心な魂です。

魂年齢の高い魂は、現世での平凡な生活をしているようでは上手く生活ができてしまうため魂の学びにはなりません。

ですから、そのような魂はあえて難しい道を選び、多くの人を導く使命を持っていることもあります。

また、そのように多くの人を正しい方向に導くお役目をいただくということは、人を幸せにすることでもあり、それによって、自分も幸せになれるということを理解しているともいえるでしょう。

そして、より沢山成長してたいという勉強熱心な魂もあえて苦しい環境を選んで生まれてきます。

なので、そのような魂もあえて重い障害を持っていたり、大きな人生の壁が待ち構えていたりと、人一倍、喜怒哀楽を体験する人生にもなります。

日本も世界も未来も全てが自己責任

ここまで、ありとあらゆるものが自分で選んできたものなんだよということをお伝えさせていただきました。

それは、今現在の現世においてもいえます。

今、皆さんが自分のためだけに生きることも、人のために生きることも自己責任なのです。

これからの人生も日本の未来も世界の未来もすべてが自己責任なのです。

みんなが身勝手に生きていれば必ず戦争になるでしょう。

みんなで思いやりを持てば調和が生まれてより良い世界に変わります。

これまでに起こったこと社会のことの全てが自己責任であり、これから起こることも全てが自己責任なのです。

皆さんは、将来、どのような世の中で生活していきたいですか?

結局、あいつが悪いと人のせいにしているうちは世の中はよくなりません。

それも自己責任なのです。

どんな悪魔のようや人でも、そのような人を作り出した自分にも責任があり、また、そのような人格を作らないために私が何ができるかを考えて行動することが必ず必要なのです。

 

 

 

スピリチュアルの神様とは

今回はスピリチュアリズムにおける神様についてお話しさせて頂きます。

スピリチュアリズムの視点で見る神とは?

神とは、摂理であり、真理であり、叡智であり、愛そのものと定義されています。

私は神だ

私も神です。

神様というと、みなさんはどのような姿をイメージしますか?

白髭を生やしている人や仏様のようなイメージを持つ人も多いのではないでしょうか?

しかし、スピリチュアルからの視点で見た神とは人間の形をしたものではありません。

神とは、摂理そのもの、真理そのもの、叡智そのもの、愛そのものと定義されています。

そして、それは全ての生き物や物にも含まれており、存在する全てのものに神が宿っています。

ですから、当然ながら私も神であり、このブログを読んでいただいている皆様も同じ神なのです

神もまた未熟である

先ほど、私たちはみんな神様だとお話しさせていただきました。

神様とは完全無欠のなんでもできる無敵の人というイメージがあります。

しかし、同じ神である私達は毎日毎日失敗を繰り返したり、下手をすれば悪意を持って相手を傷つけてしまう場合もありますよね。

それなのに、なんで私達が神なんだろうと不思議に思う方もいるかもしれません。

しかし、実は、神というのは完璧な存在ではなく、未熟な部分を持っており、より完璧に近づくために神もまた、日夜、成長しています。

そして、その神の未熟な表現が私達の過ちなのです。

神を見る

最初に、神の定義として、神は、摂理であり、真理であり、叡智であり、真理そのものだということをお伝えさせていただきました。

この定義だとなかなかイメージしにくい部分がありますが、私達自身が神様であるように、すぐ目の前で見ることができます。

それは、季節によって変わる葉っぱ一枚一枚の変化、そして、時が経ち木からヒラヒラと落ちる葉っぱ一枚一枚とその動き、風でなびく海の波や自然の動き。

これら一つ一つに、神の摂理が働いています。

そして、親が子を思うように見返りを求めず、ただただ相手の幸せのための行為にも、神そのものの愛なのです。

そして、それら一つ一つの表現が神そのものだといえるのです。

ですから、嬉しいことも悲しいことも、良い行いも悪い行いも、実は、すべて神に見られており、それがそのまま法則として、後々の結果として現れるのわけです。

神とは大事にするもの

ここまでスピリチュアルの視点から見た神について解説させていただきました。

最後に、私達は神であるが故に私達は神らしい存在として周りの人々、動物、植物、鉱物、全ての物を神として大事に扱い、神として敬い、神らしい行動をとらなければいけません。

そのためには、自分さえよければいいという未熟な神の部分は捨てなければいけません。

そして、そのような利己的な物を捨てれば捨てるほど完璧に近づき、幸せになれるのです。

 

 

 

 

 

カルマの解消!スピリチュアルな視点で見たカルマとは?

皆さんはカルマという言葉を聞いたことはありますか?

人によっては、初耳という方もいると思いますが、スピリチュアルな視点で見た時に非常に重要で役に立つこのカルマについて細かくお話しさせていただきますね。

カルマって何?

カルマとは良いことをすれば良いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるという法則をいいます。

カルマって本当にあるの?

この良いことをしたら良いことが返ってきて、悪いことをしたら悪いことが返ってくるというカルマの法則ですが、もしかしたら、人によっては信じられない人もいるかも知れませんね。

というのも、残念ながら世の中には、凄いいい人なのに凄い苦労をしていて、逆に、傍若無人で自分のことしか考えていないような人が裕福になっているということがあるからではないでしょうか?

確かに、いい人ほど苦しんで、未熟な人ほど裕福というのはあります。

しかし、見た目が幸せそうだから心も幸せかというとそうではなく、実は意外と心の中は、誰からも理解されずに人間関係がボロボロで苦しんでいたりすることもよくあります。

どんなにお金や学歴や大きな家など、目に見えるもので幸せになろうとしても残念ながら幸せにはなれません。

というよりかは、幸せになれていないから、もしかしたら、そういったもので自分の存在価値を見つけ出そうとしたいるのかもしれません。

カルマは必ず返ってくる

良い行いをしても、悪い行いをしても、そのカルマは必ず返ってきます。

しかし、そのカルマはすぐに返ってくるのではなく、数日から数十年単位の時間差で返ってきたりもします。

例えば、災害などが起きた時に見返りを求めず寄付したとします。

寄付ですから、何も見返りというものは返ってきませんが、霊界はそれを全て見ています。

なので、経済的に困った時にお金として臨時収入が入ってくるということでカルマが返ってくることもあれば、また違うタイミングで、その人に必要な人と出会わせてもらえるという風に良いカルマが返ってくることもあります。

ですから、何か良いことが起きた場合というのは実は偶然のように思えて、それまでに行なった良いカルマの結果ということもよくあります。

これと同じように、逆に、常日頃から悪い行いをしていると、事故に巻き込まれたり、誰かに見捨てられるというふうに悪いカルマが返ってきてしまうのです。

このように、カルマというのは良いカルマも悪いカルマもすぐに返ってくるわけではなく、長い時間差があったり、別の形で返ってくることもよくあります。

カルマは来世まで続く

また、散々現世で悪いことをしておいて、ある日、事故に巻き込まれて霊界に戻る場合でもカルマは法則によって返ってきます

そのような場合は、残念ながら来世に現世で行った悪いカルマが返ってくるようになってしまっています。

ですから、できる限り現世で沢山いい行いをして、悪いカルマを作らないようにすることが来世、ひいては永遠の幸せになることができるのです。

カルマは罰ではない

ここまで、カルマについて怖いこともかいてしまいましたが、しかし、カルマというのは罰ではありません。

少し話が逸れてしまいますが、私たちは、魂の成長のために現世に生まれてきますが、生まれてくる前の霊界にいる時に、どのような自分の未熟な部分(カルマ)を改善して成長していこうという計画を立てて生まれてきます。

そして、現世を生き抜く中で様々な選択に迫られることになります。

そんな中で、ある時にはきっと悪い判断や行いをしてしまう時もきっとあります。

そうすると悪いカルマが返ってきます。

しかし、悪いカルマが返ってくるというのは、「それ判断を間違っていますよ。悪いカルマを作らないように行動を変えて行かなければいけませんよ。」という霊界からの愛あるメッセージなのです。

ですから、悪いカルマが返ってきたなと感じたときは、むやみやたらに落ち込むのではなく一度立ち止まって、自分の進むべき道が間違っていないか冷静に考えることが大事になります。

努力が報われなかった

カルマというのは努力にも当てはまります。

例えば、目標にしている学校に行くために一生懸命勉強していたとします。

しかし、本番のテストで良い結果を出すことができずに受験に落ちてしまったとします。

じゃあ、そのような勉強した努力は無駄で悪いカルマだったのかというとそうではありません。

先ほど、私たちは生まれてくる前に未熟な部分を成長させるために生まれてきたとお伝えしましたが、今回の受験の失敗の場合は、「あなたは別の学校に行った方が成長できますよ」というメッセージであったりします。

なので、受験に落ちたと落胆するのではなく、「やることはやった!それで落ちたのだから私の魂の導きは違う学校にあるんだ!そっちにいこう!」と考えてみたり、「今回はダメだったけどもしかしたら来年の方がいいのかもしれない!来年頑張ろう!」という風に、霊界からのメッセージを意識して、今の自分はどこに行きたいのか、何をしたいのかというのを冷静に考えてみると、実は受験に落ちても落胆することでもなく、きっと前向きに人生を進んでいけると思っています。

また、その受験に対して行った努力も必ず何らかの形で良いカルマが返ってきます。

カルマとはそのような普遍の法則といえるのです。

カルマを上手に使おう

ここまでカルマについてお伝えしてきました。

ぜひ、この知識を忘れずに日常に取り入れてみましょう。

「良い行いをすれば良い行いが返ってくる。悪い行いをすれば悪い行いが返ってくる」

この真理に生きれば必ず幸せになれます。