無償の愛って何?
無償の愛とは見返りを求めない愛のことをいいます。
親から子供へ学歴など関係なくただただ素直に成長してほしいという愛情は、この無償の愛にとても近いです。
とはいえ、重箱の隅を叩くような言い回しになってしまいますが、無償の愛と親子の愛はすこーしだけ違いがあります。
それは、親子の愛は親から子への愛情になりますが、無償の愛は我が子を愛するように現世を生きる全ての生き物を自分自身と思い、目の前にいる人や、困っている人、現世を生きる全ての生き物の幸せを願う心です。
なんで見返りを求めたらいけないの?
見返りを求める愛というのは、苦しみのもとになってしまいがちなので、あまり見返りを求める愛はおすすめしません。
例えば、友達に洋服を買ってあげて、宿題も見せてあげて、なんでもしてあげたとしてます。
そして、相手からは何をしてもらえるかなぁ〜と待っていたところ、待てど暮らせど何もしてもらえません。
そうなるときっと、「あれもこれもやってあげたのになんで何も返してくれないの!」と怒ってしまいます。
しかし、冷静に考えると、その友達と何かお返しをする約束をした訳でもなく、実は、自分だけの独善的な妄想でしかなかったのです。
このように、実は見返りを求める愛というのは、一見、得したように見えて、実は苦しみの元になってしまうのです。
また、凄く厳しい言葉になってしまいますが、この見返りを求める思考はストーカーの思考と似ていたりもします。
ストーカーの思考
ストーカーの思考というと、「自分を嫌っているわけがない」とか、「あいつが自分たちの恋を邪魔している」などものすごく独善的な感情を抱いています。
その結果、逮捕されてしまったりというような大きなトラブルを引き起こしてしまいます。
それと同じで、約束も何もしていないのに見返りを求める独善的な行為も友人関係のトラブルに発展してしまいます。
やはりそうならないために、例えば運動会で自分の学年の競技を決める時に「あれやりたい!」「これやりたい」というふうに意見を出し合うように、自分が思っていることや、やりたいことなどを会話で伝えあってお互いが納得する選択をすることが大切です。
とはいえ残念ですが、自分は本気で話し合いをしていても、相手が騙そうとして都合のいい言葉ばかりを並べてくることもあります。
相手との話し合いと共に、相手が本当に話し合って寄り添う気持ちがあるのかどうかという見定めも気をつけて見ていきましょう。
しかし、欲しいものは欲しいと言った方がいい
これは、結婚生活でも日常的にあることだとは思いますが、「なぜこの人は物を片さないんだろう?」とか、「なぜこの人は時間を守らないんだろう?」と、いうふうに時間が経つごとに不満を持ってしまうことがあります。
しかし、それをずっと我慢して溜め込んでしまうと、どこかで限界がきてしまいます。
そうならないように、お互いに「これをして欲しいけどどう思う?」とか、「門限は○時まで。それ以降、遅くなるなら連絡しましょう」というふうに、して欲しいことや、されたいことなどを話し合いながら生活を送っていくということもとても大切です。
見返りを求めない愛の与え方
「見返りを求めない愛ってどうやるの?」と思う方もいるかと思います。
そこで、今回は私なりに見返りを求めない愛のやり方について説明していこうと思います。
まず、私たちは、普段の生活の中でたくさんの人助けをしています。
落とし物を拾ってあげたり、道を案内してあげたり、お仕事での譲り合いなど沢山のことをしています。
その行為はとても素晴らしいことですが、しかし、その先に「これだけのことをしたんかだから何かいいことあるだろう」と、霊界に見返りを求めてしまうことがよくあります。
ですが、私はこの考え方は間違っていると思います。
スピリチュアルには、いいことをすればいいことが返ってくる、悪いことをすれば悪いことが返ってくるというカルマの法則があります。
この視点で見ると、落とし物を拾ってあげたいと思った時に求めていることって相手が財布が見つかって幸せになることですよね。
ですから私は、落とし物を拾って相手が幸せになってくれた時点で十分カルマは返ってきたと思っています。
しかも、人というのはいい行為も悪い行為も伝染していきます。
ですから、わたしが助けることができた相手は、きっと他の誰かのために行動してくれていると思います。
そして、その一つ一つの行いが未来の世の中を変えていくことにつながってもいきます。
たまに、なんでこんな世の中になってしまったのだろうと呟く人がいますがそれは簡単です。
私達の行動によって今の世の中を作ったのです。
そして、未来の世の中をどう作り替えていくかも私たち一人一人の行動にかかっているという責任を持たなければいけません。
人のために行う行動は日頃の感謝
また、私たちは、特に考えることもなく日頃から人と会話をし、コンビニで買い物ができて、相談を聞いてもらえたり、時には落とし物を拾ってくれたりもします。
なので人助けをする時は、その常日頃から与えてもらっている行いへの感謝も込めて私は行っています。
ですから、やってあげたからやってもらうという発想はなく、むしろ人助けは日頃の行いに対する感謝だと思えば、実は見返りというのはそもそも求める必要もなく、それよりも相手のために行動させて貰えたことに感謝できるようになるのだと私は思っています。
時に立ち止まることも大切
しかし、もし今後生きていく中で、「あの時あれだけやったのになんでこんな苦しむんだろう」という思いがよぎった時は、一度立ち止まって、自分自身が見返りを求めていないか、感謝の心が忘れていないかを思い返してみてみましょう。
その日々の心がけも良いカルマとして必ず自分に返ってきます。
そしてそれは、憑依も弾き返すバリアにもなります。
最後は必ず黒字で終わる
現世は、あくまで学びの場です。
時に、損をしたと感じる事があるかもしれませんがそんなことはありません。
永遠という長い時間を考えると良い行いには良いカルマとして必ず黒字となって返ってきます。
全ての出会い、出来事は自分のこれまで蒔いたカルマの結果だということを意識して、自由に現世を楽しんでみてはいかがでしょう。