スピリチュアルのすすめ

スピリチュアリズムについて記事を書いてます。

利他愛とは?利他と利己の違い

利他愛とは?

利他愛とは、自分を中心に考えるのではなく、見返りを求めず、人の幸せを願った行いをいいます。

そして、利他的の逆は利己的となります。

利己的とは、自分のことだけを考えて行動するという意味になります。

この利己的な考え方とは、スピリチュアルと真逆の考え方でありよくありません。

なぜ利己的な考えはいけないのか?

利己的に生きるとは、すなわち自分中心に生きるということになってしまいます。

「自分さえ儲かれば他の人がそのあとどうなろうが関係ない。」

「周りの人間が不幸になっても儲かればそれでいい」

このような考え方では必ず最後にはその人自身に不幸が返ってくることになります。

例えば、これまでの歴史を見ていくと、自分さえよければそれでいいという国家で長持ちしたという歴史はありません。

一見、利己的で傲慢な人が社会的な成功を得ていることはよくありますが、最終的には破滅が待っています。

また、一見、社会的に成功しているようでも、実際の心の中を見ると幸せでないこともよくあります。

利己的な人は人の心を理解しようとしないが故にどんなにお金があってついて来てくれる人がいたとしても、それはお金があるからというだけで、実は相手も自分の利益になるからついて来ているという利己的であったりする場合も普通にあるわけです。

それは、金の切れ目が縁の切れ目というように、とても寂しいものではないでしょうか。

利他愛が大切

利他愛に生きると必ず幸せになれます。

利他愛という言葉をイメージできない場合は思いやりという言葉に変えると分かりやすいかもしれません。

思いやりを持てば必ず良好な人間関係ができます。

良好な人間関係が得られれば、お金の繋がりとは別に、楽しく話しができたり、沢山経験ができたりというふうに楽しいことも沢山あります。

逆に、利己的に生きていても友人というのはできます。

しかし、そのような繋がりは結局は争いに変わり、分裂して理解できないというふうに終わってしまいます。

誰だって争いなんてしたくないと思います。

しかし、その争いは実は利己的な自分自身によって引き起こしているともいえてしまうのです。

このように、一見、利己的生きた方が幸せそうに見えるかもしれないですが、それでは争い続きで幸せにはなれないのです。

例外の場合

たまに、自分ではわがまま言っているつもりはないけど自己中だというふうに言われてしまう人もいます。

それは自己中ではなく、現世で人の気持ちを人一倍考えてみましょうという課題であったりすることもあるので、そのような人は思いやりがないということではないので心配しなくても大丈夫です。

利他愛とは優しさであり厳しさ

利他愛とは、相手を思う心になります。

なので、時には優しく、また時に相手のためになっていないと思うのであるならば、厳しくすることも利他愛といえます

とはいえ、この厳しさも怒鳴り散らすのではなく、あくまで相手のための行動でなければいけません。

ですから、相手に伝える時は「〇〇は××だからこうだよね?あなたのやってることはおかしくないですか?」というふうに相手が自分で考えて答えを得ることが大切だというふうに私は思います。

もちろん、悪の心そのものは不幸を呼びますから相手のために許してはいけません。

善悪の判断

はて、ところで善悪とはなんでしょうか?

当然ながら、善悪の明確な判断ができなければ相手に対して正しく間違いを指摘することはできません。

下手をしたら、自分の中の想いを押し付けているだけということにもなりかねません。

善とは思いやり、理解する心、許す心など人のことを想う行動・言葉・想いになります。

逆に悪は、自分さえよければいいという身勝手な心、人への無理解、恨み辛みといった自分のことだけを想う行動・言葉・思いになります。

簡単!スピリチュアルな視点で見る善と悪とは - スピリチュアルのすすめ

こちらの記事で善悪について書かせていただきましたが、相手のために伝えるためには、自分自身で善悪の判断がつけて正しく伝えることがとても重要です。

そして、正しく伝えるためには知識だけではなく、自分自身が常日頃から善の行動をとらなければいけません。

そのような行動を伴わない言葉は、それはただの空想の机上の空論で意味のないただの言葉なのです。

利他愛とは最大の利己愛

記事の最初に見返りを求めないことが利他愛だというふうにお伝えさせていただきました。

しかし、もう少し深く説明をすると利他愛は利己愛でもあります。

例えば、利他愛として見返りは求めず、困っている人を助けたとします。

そして、その人が助かって、その助けられた思いから、今度は他の困っている人の手助けをしました。

そして巡り巡って自分が困っている時に助けてもらえたという「情けは人の為ならず」という言葉があるように、利他愛というのは相手のための幸せであって自分のための幸せでもあるのです。

今回の例は1人が1人を助けてというふうに説明させてもらいましたが、実際は1人が2人でも10人でも20人でもいいわけです。

みんながそれをやれば、世の中は一気によくなります。

そうならないのは、私たちにまだまだ自分さえよければいいという傲慢な考え方があるからなんだと思います。

しかし、そこから困った状態になった時に、そこから自分の傲慢さに気づくのもまたありがたい学びでもあります。

結論

幸せに生きたいなら利他愛に生きることが大切です。

利他愛に生きても見返りが返ってこないからやりたくないというのも傲慢です。

もし、自分が好き勝手、傍若無人に生きるなら周りの人に傍若無人の振る舞われても自分と同じ行いをしている訳ですから褒め称えるべきです。

しかし、それでは幸せにはなれません。

結局、人が傲慢で生きれば生きるほど苦しい世の中で生きることになってしまうのです。

自分の幸せは自分で掴み取り困っている人がいたら助かる。

でも、どうしても自分が困ったら他の人に助けを求めるというようにしてみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

守護霊の種類は?スピリチュアルから見た真実!

そもそも守護霊ってなに?

守護霊とは、私達1人1人に付いており、私たちの魂の成長のために人生を共に歩むパートナーといえます。

守護霊がいないひとはいない

よく守護霊がついていないという人がいますが、そのような人はいません。

守護霊は必ず全ての人についています。

守護霊の種類

ここまで、簡単に守護霊について説明させていただきました。

実は、そんな守護霊ですが、この守護霊にも種類があります。

今回は、その守護霊の種類について説明していきますね。

主護霊(しゅごれい)

この主護霊は、現世に生まれてくる前、現世、さらにあの世に帰った後も霊界に帰るまでずっと見守ってくれる存在です。

この主護霊は、私自身といえるほど本人と似ています。

指導霊

指導霊は職業や技能を司り、現世を生きる人はこの指導例の影響を大きく受けます。

例えば、料理人には料理人の指導霊がついていたり、大工には大工の指導霊がついているということがよくあります。

そして、この指導霊は人によっては複数人ついていることもあります。

これは、人の器によって変わり、より人のために頑張っている人には、さらにその人を応援したい指導霊が力を貸してくれることもあります。

また、守護霊が指導霊の代わりであることもあります。

しかし、指導霊の数が多ければいいというわけではなく、その人の役割によって指導霊がついてくれます。

支配霊

支配霊は、自然霊であることが多いですが、人霊であることもあります。

そんな支配霊は、私達の人生の10年以上先までの未来を瞬時に見渡すことができます。

そして、私達が最も魂の成長に繋がるように、人との縁だったり、就職先、結婚、土地、環境へ導いてもらえます。

縁と聞くといい縁思い浮かぶと思いますが、これは悪縁も含みます。

例えば、気が合わない人とも出会うことというのはよくあると思いますが、このような嫌な縁も支配霊の導きといえます。

私たちは魂の成長のために生まれてきていて、さらに、相手は自分の鏡ですから、気が合わないということ関わって、自分の未熟な部分を見せてもらうことで、更なる魂の成長に繋がれるありがたい縁になります。

そして、その良縁をよりよく長いものにするのかどうか、また、その悪縁を乗り越え成長できるかどうかは私達の選択になります。

なので、良縁をよりいいものに変えて、悪縁を成長に変え楽しく乗り越えていきましょう!

補助霊

補助霊は狭義の上では守護霊にはなりません。

この補助霊は私たちへのメッセージを伝えたいという時や、逆に、自分が生きていた頃にやり残していたことをやりきりたいという思いから補助してくれることもあります。

例えば、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんがこう言っているなんて霊能者が言う時がありますが、これは補助霊としてアドバイスをしてくれていることになります。

また、作りかけの作品を完結させるために、次にバトンタッチされた人に補助霊としてサポートしているということもあります。

このように、補助霊というのはどこまでが未浄化霊でどこまでが補助霊なのかの線引きが難しかったりします。

なので、未浄化霊なのか補助霊なのかというのは、大我が小我かで判断してもいいかもしれません。

正しい知識が必要

ここまで守護霊について解説させていただきました。

守護霊というと、意外と霊能者によって言っていることが違うことがあります。

ただの詐欺師は論外ですが、幽霊が見えている人でも守護霊の定義がバラバラだったりします。

今回、私が記事にした内容に関しては、スピリチュアリズムによる高級霊からの霊言や霊能者の証言などの統計の結果です。

なので、ぜひ正しい知識を持ち、日々、導かれていることを感じ、人生に活かしていってくれたら幸いです。

 

 

悪とは?悪は魅力的!

悪とは?

悪とは、自己中心的な心、理解しない心、許さず恨んだり憎んだりする心など自分さえよければいいという思いから出る利己的な行動・言葉・想いをいいます。

これらの行いは必ずトラブルを作り出し、最終的に苦しむ不幸への道になります。

また、そのような苦しむことを理解せずに悪の行為をしてしまうので、悪とは無智や苦しみともいえます。

簡単!スピリチュアルな視点で見る善と悪とは - スピリチュアルのすすめ

でも、詳しく記事にさせていただきましたので、もし興味があったら読んでいただけたらなと思います。

悪とは一見魅力的

悪というと物を盗んだり嘘ついたりということをイメージしますね。

一見、悪というと避けて通りたいものですが、悪というのは、実は一見、魅力的であることがよくあります。

例えば、万引き、恫喝、身勝手なウソ、裏切り、隠蔽など、楽して目先の利益を得ようとすると悪いことが浮かぶことも多かったりします。

悪と物質的価値観

物質的価値観

お店で欲しい商品があった場合、盗んでしまうのが一番楽ですよね。

そして、その欲しい商品を万引きした場合どうなると思いますか?

おそらく、多くの人が一番最初に思いつくのが逮捕される心配だと思います。

実は、この考え方が落とし穴で逮捕されるからやらないというのは現世的な物質的価値観だったりしむす。

本質を見る必要がある

もちろん逮捕も抑止力にはなります。

しかし、逆に言ってしまうと、逮捕されなければやるということにもなってしまうわけです。

そうではなく、1人が万引きを始めると他の人も釣られて万引きを始める人がいます。

さらに、その万引きした人に釣られて、さらに他の人が万引きを始めます。

そうすると、お店そのものがやっていけないのでお店が潰れまいます。

すると結果として、本当に買い物が必要な時に身近にお店が無くなり困ってしまうことになります。

それどころか、万引きに釣られて悪いことを始める人というのは万引きだけに限りません。

万引きという未熟な心に釣られて、ウソをつくようになったり、簡単に人を騙したり、さらには恫喝やストーカーなど、どんどん悪い方向に流されるようになってしまい、そのうち、万引きしていい思いをしているつまりだった人も、そのうち騙される側になるでしょう。

その結果、万引きという一時的な快楽のために、必要なお店も安全な治安も悪化させてしまうわけです。

これは万引きだけに限りません。

残念ながら、ちょっとした嫌がらせや恨む心から始まることも普通にありえるのです。

すなわち、身勝手に生きるということは逮捕されるからという問題以上に、実は自分自身も、大切な人も、みんなを不幸への道へと進ませているということがいえるわけです。

このように善悪の本質は、逮捕されるからということではなく、身勝手な行動をすると結果としてみんなも自分も不幸になるということを理解することが必要になります。

悪の退治!

また、このように、悪というのは実は身近に潜んでいて、ちょっとしたことで未熟な悪い自分が表に出てきてしまうことがよくあります。

そこに気をつけて日頃からの日常を過ごすことで、結果的に自分もみんなも幸せになれるようになります。

ぜひ、皆さんも日常に参考になったらなと思います。

自殺と霊。自殺とは苦しみだ!

自殺したいほど苦しい。

でも、自殺は怖い。

自殺したらどこに行くんだろう。

そんなことを記事にしてみました。

自殺するとどうなる

結論から言ってしまうと成仏できません。

スピリチュアルから見た生まれ変わりの流れ - スピリチュアルのすすめ

の記事でも書きましたが、本来、人は現世を卒業すると幽霊の姿になって大体49日間の間はここの現世と成仏したときに行く幽界の間である幽現界にしばらくいることになります。

その後、お世話になった人に挨拶が一通り終わって未練も無くなると幽界という世界へ移動していきます。

この幽界へ移行したときが現世の言葉でいうと成仏になります。

 

しかし、私たちが現世に旅立ってきた理由は魂の成長です。

それを放棄して自ら自殺をしてしまうということは、学校で例えると、卒業の前日に学校を中退するのと残念ながら同じようなものです。

中退するということは、また4月から学校に通って同じように勉強して、同じように1年間学校に通わなければいけません。

きっと、多くの人は後悔するでしょう。

それと同じように、自殺した魂は生まれてくる前の記憶もすべて思い出すことになります。

そこで、取り返しのつかないことをしまったという後悔が未練になってしまい未浄化霊として現世に止まってしまいます。

死んでも楽にはならない

さて、未練を残して未浄化霊となった自殺した魂はどうなるでしょうか。

自殺した霊には2つのパターンがあります。

1つ目は、自分が死んだことに気づかず、何度も何度もひたすら自殺を繰り返し続ける霊になります。

残念ながら死ねば楽になれると思っていたのに、なかなか死ねずに何度も自殺を繰り返し苦しんでしまうことになります。

2つ目は、大きな後悔によって自らが真っ暗な暗い空間に閉じこもって、取り返しのつかないことをしてしまったとひたすら後悔をし続けます。

しかし、どんなに後悔しても生き返ることは残念ながらできないのです。

そして、あの世の世界では時間の概念がないため,そうこうしているうちに気づいたら100年経っていたということも普通にあるのです。

しかし、そのような魂も自らがこのままではダメだと気づき数年、数十年、数百年かけて自ら立ち直り幽界へと進んでいきます。

自殺した魂の生まれ変わり

自殺した魂もついに幽界へ行き、そこからさらに浄化が進み霊界へと進みます。

そして、様々な生まれ変わる準備をしてから現世に再び誕生します。

しかし、前世での自殺したときの計画が終わっていないため、前世での自殺した年までは、これまで経験したことと同じような楽しいことも嫌なことも経験しながら成長していきます。

そして、いよいよ前世で自殺した年齢に差し掛かってからが、ようやく再スタートとなれるのです。

自殺は苦しみへの道

このように、自殺すると長い苦しみの後にもう一度生まれ変わり、現世を何十年と生きてからようやく再スタートができるようになります。

その間の数百年という時間がかかってしまいます。

ですから自殺とは、残念ながら楽になるどころかより苦しむ道であり、もう一度、何十年と現世をやり直さなければいけない大変な道なのです。

であるならば、今、死にたいほど苦しくともなんとか踏ん張って生き抜いた方が絶対に楽なのです。

 

身内で自殺が出てしまった場合

身内で自殺者が出てしまう場合もあります。

そのような場合について解説させて頂きます。

身内が自殺して亡くなってしまった場合、残念ながら現世に留まってしまって、先程言ったように1人で後悔し続けていたり、自殺を繰り返していたりします。

私達には、その姿というのは見えませんがあの世というのは想いの世界になります。

ですから、たとえ姿が見えずとも現世を生きている私達から相手へ想いが届けることができます。

なので、もし、身内で自殺した人がいて成仏しているか心配ということであれば、どのような場所でも構わないので相手をイメージして「あなたはもう亡くなったんだよ。もし成仏してなかったら頑張って成仏してね。」というふうに、言葉を出せれば出して、出さなければ念じてその想いを届けるようにしてみましょう。

そういった想いは相手にしっかり届くので、立ち直る励みとなります。

すべての自殺が自殺というわけではない

一見、自殺のように見えてもそれは自殺でない場合もあります。

例えば、戦前の時代というのは相手に捕まるくらいなら自死しろと言われて育ってきていたりもします。

そのような場合は、今すぐ逃げたいという思いではなく、死にたくないけど死なざるおえなかったという自死になるため死んでもそのまま未練を残して現世に留まるということはありません。

こちらも動機が大切になります。

痛い、辛い、苦しいという思いで自殺してしまう場合は楽になることはありません。

生きなければならないのです。

自殺も学びになる(自殺していいわけではない)

自殺は余計苦しくなるのでオススメしません。

しかし、自殺した魂は来世では絶対に生き抜こうと思い生まれ変わってきます。

ですので、そういった魂は次は自殺せずに生き抜くことができます。

そう考えると前世での自殺によって高い代償を払ったものの生き抜くことの重要性を学べたという智恵がついたともいえます。

そして、すごく遠回りになってしまいますが、そこから学び無智を智に変えられた魂の成長ともいえるわけです。

これは、自殺したら楽になるとか、自殺していいということではなくて、自殺も障害もイジメも借金も離婚も病気もすべては学びだということを理解してくれたらと思います。

まとめ

自殺しても楽にはならず、むしろ余計苦しみと後悔で余計苦しくなってしまう。

身内で自殺した人がいる場合は、想いを届けることができる。

自死させられた場合は自殺にはならない。

 

 

 

 

スピリチュアルと子育て!親を選んでくる理由

魂は家族を選んで生まれてくる

私たちは、親やお兄ちゃんやお姉ちゃんを選んで生まれてきています。

さらに、家族によっては自分の後に生まれてくる弟や妹もある程度計画されて生まれてきています。

そして、私たちが現世に生まれて最初の学びが家族となります。

ここから、自分で選んだ家族と共に生活することで、魂の学びの旅が始まっていきます。

家族でも魂は別

家族というと、みんなが何かしら繋がりがあるように思いますが、実はそうではありません。

家族でも家族のみんなが同じ霊性で、同じ性格であるということではないのです。

ですが、性格が似ているということはよくあります。

それは、家族で似たカルマを持っているからです。

そして、家族の性格が似るということは、親ゆ兄弟という鏡を見て自分の未熟な部分をそのまま自分の鏡として見るということで、自分の未熟な部分を改善させてくれるありがたい存在といえるのです。

自分の未熟な部分を改善する役割であったり、家族全体で似たようなカルマを持っているため、それを解消する役割も持っているためです。

また、家族全体のカルマを解消する使命を持った魂もいます。

そのような魂は、自分以外の魂のために働く使命もあるのでより崇高な魂といえます。

しかし、それは特別ということではなく、それぞれの魂が自分の器をより大きくするために、みんなが平等に努力をし人生を懸命に生きているので悦に浸ることではありません。

大事なことは人のために生きることなのです。

家族なのに全然性格が違う

また、逆に家族なのに性格が真逆という子もよくいたりしますね。

これは、先ほど家族をそのまま自分の鏡として見ることで、自分の未熟な部分を改善していくという「カルマの解消」の意味があるとお伝えさせていただきました。

これと同じように、自分と真逆の性格の家族を見ることで、相手を理解する力や相手の尊敬できる部分を参考にして自分の未熟な部分のカルマの解消に繋げるという意味もあります。

双子でも魂は別

双子の場合も、性格や容姿が凄い似ていたりすることもありますが、こちらも魂自体は別になります。

とはいえ、双子として生まれてきたことにも意味があり、魂ごとに学びは変わってきますが、共通する部分もあります。

それは、双子として生まれてくるということは、同じ環境で育ち、同じ食べ物を食べ、同じ学校で生活をするということになります。

そのため現世では、人との絆を学ぶことや自分を鏡をよりはっきり見たいという意味があります。

そして、それが自らの魂のカルマの解消に繋がるということを理解して選んで生まれてきたのです。

 

 

 

 

幽霊と憑依!憑依の仕組みがわかれば怖くない!

毎日、嫌なことしか起きない…、もしかして、私は何か悪い霊に憑依されているのでは?

今回はそんな方向けに記事を書いてみました。

憑依とは?

憑依とは、霊が憑依した時の状態をいいます。

霊にもそこら辺にいる未浄化霊や自然霊が憑依したり、稀に霊媒として高級霊が憑依します。

ただし、教祖のように私には〇〇が憑いているというように偉人の名前を語るのはほぼすべて低級自然霊の憑依になります。

当然、幸せになることはできません。

憑依は怖くない

憑依というとどうしても悪霊など悪いものをイメージしてしまいます。

しかし、大抵の場合はそのようなことはなく、実は日常の中で普通に憑依されていたりします。

それでは、憑依されると人はどのようになってしまうか見ていきましょう。

泥酔は憑依の仕業

憑依する霊とは、まだ現世に未練があってお酒を飲みたい人は酒場にいたり、肉が食べたいという霊は焼肉屋にいることも普通にあります。

例えば、お酒を飲みすぎてしまって飲んでいた時の記憶がまったくないということがありますよね。

実は、そういった時は、お酒で理性が薄くかなってくることで、無意識状態のようになり、Aさんがお酒を飲んでいるようでも、実際は憑依している霊がお酒を飲んでいるということがあったりします。

また、普段よりやたら食べすぎてしまったということってありますよね。

実は、そういった場合でも、憑依がされていることがよくあります。

例えば、肉が好きで普通に食べているうちに、肉を食べたい未浄化霊が憑依して食べすぎてしまったり、また、周りの人の食べたいという思いが憑依して普段より食べすぎてしまうということも実は普通によくおきています。

このように、憑依というのは恐れるものではなく、何気ない日常で普通に憑依されていることもよくあったりします。

憑依は同じ波長で結ばれる

ここまで読んでいただければ憑依というのは恐ろしいものではなく、日常的によくあるものなんだということがわかったなと思います。

実は、この憑依現象というのは全てが波長で繋がっています。

例えば、仲のいい友人がいたりすると思いますが、実は、これも波長によって自分の波長が引き寄せた鏡になります。

とても面白い現象ですが、仲のいい人であればあるほど、目に見える肉体を持った同士の憑依なのです。

幽霊の憑依も怖くも何でもなくて、肉体の持たない幽霊が「あなたは私と同じ想いだね!一緒にいたい!居心地がいいの!」といってくっついているだけなのです。

なので、イジワルしようとしている人にはイジワルしたい未浄化霊が憑依するようになり、逆に、霊性の高い人には高級霊が見守ってくれるようになるのです。

憑依されるとどうなるのか

憑依されると、その性格が大きくでます。

酒飲みであれば歩けなくなるまで飲みすぎてしまったり、食事であれば食べ過ぎてしまうように、意地悪しようとする霊が憑依された場合、理性で抑えることができなくなってしまい、やらなくていい嫌がらせや過激な嫌がらせをしてしまうようになりトラブルを引き起こします。

しかし、それは憑依霊が悪いのではなくて、その意地悪したいという気持ちを持っている自分が引き寄せているだけの話しであって、厳しいですが、憑依される自分が悪いのです。

憑依を解くには

憑依を解くには憑依霊と波長を合わせないことが重要です。

先ほど、意地悪したい人に意地悪したい霊が憑依してしまうと説明しました。

これは、なぜ憑依するのかというと、同じ想いを持つ人なら自分の気持ちを理解してくれるので、憑依した状態がとても居心地がよくなってしまい離れたくなくなるからです。

これは、逆に言えば同じ想いを持たなければ、未浄化霊も居心地も悪く憑依されるということがなくなるということです。

そのためには、常日頃から人を陥れたり、嫌がらせしようとする心や、差別的な心を持たずに、人の気持ちを考えて思いやりを持って接することが大切です。

そうすれば、そのような人は悪い霊とは波長が合わないので憑依されることはありません。

それどころか、高級霊からのご加護をいただけるようになります。

何でもかんでも除霊しますという霊能者は偽物

除霊して幸せにしますという霊能者は偽物です。

ここまでも説明してきましたが大抵の場合、憑依は自分の心と同調して憑依されます。

そのため、仮に霊能者と呼ばれる人に除霊してもらったとしても、本人が変わってないわけですからまた同じような未浄化霊に憑依されてしまいます。

なので、除霊して幸せになれるなんていうのはまず偽物なのです。

まとめ

幽霊の憑依というのは私たちの心が原因です。

そして、「人の役に立ちたい!」「思いやりを持って行動したい!」という人には高級霊が見守ってくれます。

なので、除霊したところで心が変わらなければ、また同じ思いを持った霊に憑依されます。

ですから、普段の心がけを大切にすることと、除霊しか言えないような霊能者なんて信用はゼロです。

 

無償の愛とスピリチュアル

無償の愛って何?

無償の愛とは見返りを求めない愛のことをいいます。

親から子供へ学歴など関係なくただただ素直に成長してほしいという愛情は、この無償の愛にとても近いです。

とはいえ、重箱の隅を叩くような言い回しになってしまいますが、無償の愛と親子の愛はすこーしだけ違いがあります。

それは、親子の愛は親から子への愛情になりますが、無償の愛は我が子を愛するように現世を生きる全ての生き物を自分自身と思い、目の前にいる人や、困っている人、現世を生きる全ての生き物の幸せを願う心です。

なんで見返りを求めたらいけないの?

見返りを求める愛というのは、苦しみのもとになってしまいがちなので、あまり見返りを求める愛はおすすめしません。

例えば、友達に洋服を買ってあげて、宿題も見せてあげて、なんでもしてあげたとしてます。

そして、相手からは何をしてもらえるかなぁ〜と待っていたところ、待てど暮らせど何もしてもらえません。

そうなるときっと、「あれもこれもやってあげたのになんで何も返してくれないの!」と怒ってしまいます。

しかし、冷静に考えると、その友達と何かお返しをする約束をした訳でもなく、実は、自分だけの独善的な妄想でしかなかったのです。

このように、実は見返りを求める愛というのは、一見、得したように見えて、実は苦しみの元になってしまうのです。

また、凄く厳しい言葉になってしまいますが、この見返りを求める思考はストーカーの思考と似ていたりもします。

ストーカーの思考

ストーカーの思考というと、「自分を嫌っているわけがない」とか、「あいつが自分たちの恋を邪魔している」などものすごく独善的な感情を抱いています。

その結果、逮捕されてしまったりというような大きなトラブルを引き起こしてしまいます。

 

それと同じで、約束も何もしていないのに見返りを求める独善的な行為も友人関係のトラブルに発展してしまいます。

やはりそうならないために、例えば運動会で自分の学年の競技を決める時に「あれやりたい!」「これやりたい」というふうに意見を出し合うように、自分が思っていることや、やりたいことなどを会話で伝えあってお互いが納得する選択をすることが大切です。

 

とはいえ残念ですが、自分は本気で話し合いをしていても、相手が騙そうとして都合のいい言葉ばかりを並べてくることもあります。

相手との話し合いと共に、相手が本当に話し合って寄り添う気持ちがあるのかどうかという見定めも気をつけて見ていきましょう。

しかし、欲しいものは欲しいと言った方がいい

これは、結婚生活でも日常的にあることだとは思いますが、「なぜこの人は物を片さないんだろう?」とか、「なぜこの人は時間を守らないんだろう?」と、いうふうに時間が経つごとに不満を持ってしまうことがあります。

しかし、それをずっと我慢して溜め込んでしまうと、どこかで限界がきてしまいます。

そうならないように、お互いに「これをして欲しいけどどう思う?」とか、「門限は○時まで。それ以降、遅くなるなら連絡しましょう」というふうに、して欲しいことや、されたいことなどを話し合いながら生活を送っていくということもとても大切です。

見返りを求めない愛の与え方

「見返りを求めない愛ってどうやるの?」と思う方もいるかと思います。

そこで、今回は私なりに見返りを求めない愛のやり方について説明していこうと思います。 

まず、私たちは、普段の生活の中でたくさんの人助けをしています。

落とし物を拾ってあげたり、道を案内してあげたり、お仕事での譲り合いなど沢山のことをしています。

その行為はとても素晴らしいことですが、しかし、その先に「これだけのことをしたんかだから何かいいことあるだろう」と、霊界に見返りを求めてしまうことがよくあります。

ですが、私はこの考え方は間違っていると思います。

スピリチュアルには、いいことをすればいいことが返ってくる、悪いことをすれば悪いことが返ってくるというカルマの法則があります。

この視点で見ると、落とし物を拾ってあげたいと思った時に求めていることって相手が財布が見つかって幸せになることですよね。

ですから私は、落とし物を拾って相手が幸せになってくれた時点で十分カルマは返ってきたと思っています。

しかも、人というのはいい行為も悪い行為も伝染していきます。

ですから、わたしが助けることができた相手は、きっと他の誰かのために行動してくれていると思います。

そして、その一つ一つの行いが未来の世の中を変えていくことにつながってもいきます。

たまに、なんでこんな世の中になってしまったのだろうと呟く人がいますがそれは簡単です。

私達の行動によって今の世の中を作ったのです。

そして、未来の世の中をどう作り替えていくかも私たち一人一人の行動にかかっているという責任を持たなければいけません

人のために行う行動は日頃の感謝

また、私たちは、特に考えることもなく日頃から人と会話をし、コンビニで買い物ができて、相談を聞いてもらえたり、時には落とし物を拾ってくれたりもします。

なので人助けをする時は、その常日頃から与えてもらっている行いへの感謝も込めて私は行っています。

ですから、やってあげたからやってもらうという発想はなく、むしろ人助けは日頃の行いに対する感謝だと思えば、実は見返りというのはそもそも求める必要もなく、それよりも相手のために行動させて貰えたことに感謝できるようになるのだと私は思っています。

時に立ち止まることも大切

しかし、もし今後生きていく中で、「あの時あれだけやったのになんでこんな苦しむんだろう」という思いがよぎった時は、一度立ち止まって、自分自身が見返りを求めていないか、感謝の心が忘れていないかを思い返してみてみましょう。

 

その日々の心がけも良いカルマとして必ず自分に返ってきます。

そしてそれは、憑依も弾き返すバリアにもなります。

最後は必ず黒字で終わる

現世は、あくまで学びの場です。

時に、損をしたと感じる事があるかもしれませんがそんなことはありません。

永遠という長い時間を考えると良い行いには良いカルマとして必ず黒字となって返ってきます。

全ての出会い、出来事は自分のこれまで蒔いたカルマの結果だということを意識して、自由に現世を楽しんでみてはいかがでしょう。